坂本龍馬は本当に幕末の英雄だったのか?薩長同盟・船中八策の真相から見える「真実の坂本龍馬」~『わかっちゅう【了解です】』な坂本龍馬さんのLINEスタンプ
LINEアニメスタンプ(非公式)
薩長同盟も船中八策も龍馬の手柄ではなかった…「ただの脱藩浪人」を幕末最大のヒーローに仕立てた”張本人”
坂本龍馬は本当に幕末の英雄だったのか?薩長同盟・船中八策の真相から見える「真実の坂本龍馬」
司馬遼太郎が作った龍馬像と歴史学が描く実像を徹底検証
はじめに
日本人が最も好きな歴史上の人物ランキングを行うと、必ず上位に名前が挙がる人物がいる。
それが 坂本龍馬 である。
特に1960年代から1970年代にかけて国民的ベストセラーとなった 竜馬がゆく の影響は絶大であった。
そこでは龍馬は、
- 薩長同盟を成立させた立役者
- 大政奉還を実現した天才政治家
- 船中八策を考案した近代日本の設計者
- 日本海軍の創設者
- 日本株式会社の創業者
という、まるで幕末日本を一人で動かしたような超人的存在として描かれている。
しかし近年の歴史研究では、このような龍馬像に大きな修正が加えられている。
歴史学界では現在、
「薩長同盟は龍馬一人の手柄ではない」
「船中八策は龍馬のオリジナルとは断定できない」
「大政奉還も龍馬主導とは言えない」
という見方が主流になりつつある。
では龍馬は単なる過大評価された人物だったのか。
答えはそう単純ではない。
近年の研究によって明らかになったのは、
「龍馬は司馬遼太郎が描いたような万能の英雄ではない。しかし幕末政治の重要な触媒であり、独特の役割を果たした人物だった」
という実像である。
本稿では当時の証言や最新研究をもとに、坂本龍馬が実際に幕末で果たした役割を検証していく。
「龍馬神話」はどのように作られたのか
まず理解しなければならないのは、現在多くの日本人が抱いている龍馬像は史実そのものではないということである。
龍馬が暗殺されたのは1867年。
ところが明治維新後しばらくの間、龍馬はそれほど有名人物ではなかった。
維新政府の中心人物となったのは、
- 西郷隆盛
- 大久保利通
- 木戸孝允
- 伊藤博文
などであった。
龍馬は維新前に暗殺されたため、新政府で活躍する機会がなかった。
そのため長い間、
「有能な志士の一人」
程度の評価であった。
龍馬人気が爆発したのは1962年から連載が始まった司馬遼太郎の『竜馬がゆく』以後である。
司馬自身も後年、
「小説である以上、創作はある」
と語っている。
つまり司馬龍馬は歴史資料に基づきながらも、現代人が共感しやすいヒーロー像として再構成された存在なのである。
薩長同盟は本当に龍馬が作ったのか
龍馬最大の功績として語られるのが薩長同盟である。
1866年。
それまで犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶ。
この結果として倒幕勢力が形成され、明治維新への道が開かれた。
学校教育でも長らく
「龍馬が西郷と木戸を仲介した」
と教えられてきた。
しかし現在の研究では事情はかなり複雑である。
薩長はすでに接近していた
実は薩長同盟以前から両藩は秘密裏に接触していた。
長州藩は第二次長州征討に備え、
「薩摩の支援が必要」
と考えていた。
一方薩摩藩も、
「幕府だけでは日本を守れない」
という認識を強めていた。
つまり両者とも同盟を望む理由を持っていたのである。
歴史家の間では、
「同盟そのものは龍馬がいなくても成立した可能性が高い」
との見方が有力である。
それでも龍馬は重要だった
では龍馬は無関係だったのか。
それも違う。
龍馬は当時、長崎を拠点とする商社的組織である海援隊を率いていた。
薩摩とも長州とも深い人脈を持ち、
どちらにも属さない中立的立場にいた。
これは非常に珍しい存在だった。
藩士同士は互いに警戒していたが、
龍馬なら本音を話せる。
実際に木戸孝允の日記には、
龍馬が仲介役として活動したことを示す記録が残されている。
つまり現在の研究では、
「龍馬が薩長同盟を作った」
ではなく、
「龍馬は薩長同盟成立を円滑にした重要な調整役」
と評価されているのである。
西郷隆盛は龍馬をどう見ていたのか
興味深いのは西郷の評価である。
西郷は龍馬について、
「天下の事をよく知る人物」
と高く評価していたという。
龍馬暗殺後、西郷は非常に残念がったとも伝えられる。
一方で西郷自身は、
薩長同盟が龍馬なしでは成立しなかったとは考えていない。
西郷にとって龍馬は、
「欠かせない参謀」
ではなく、
「信頼できる有能な仲介者」
だったと考えるのが妥当である。
船中八策は龍馬の発明ではなかった
龍馬神話でもう一つ有名なのが船中八策である。
慶応3年(1867年)、土佐へ向かう船の中で龍馬が考案した新国家構想とされる。
内容は、
- 政権返上
- 議会設置
- 人材登用
- 憲法制定
などである。
戦後長らく、
「龍馬が日本の民主主義を設計した」
と語られてきた。
しかし近年研究はこれにも修正を加えている。
元ネタは他に存在した
船中八策と極めて似た内容の政治案が複数存在していたことが判明している。
特に土佐藩の改革派、
後藤象二郎
らが構想していた案との共通点が非常に多い。
また、
横井小楠
の政治思想との類似も指摘されている。
つまり船中八策は完全なオリジナルではなく、
当時の改革派知識人の議論を集約したものだった可能性が高い。
しかし龍馬の価値は別にあった
ここで重要なのは、
「オリジナルではない=価値がない」
ではないことだ。
優れた政治家とは必ずしも発明家ではない。
複数のアイデアを統合し、
実行可能な形にまとめる能力も重要である。
龍馬はまさにそのタイプだった。
様々な藩や人物から得た知識を整理し、
現実的な政治構想として提示した。
この能力は極めて高かったと考えられる。
龍馬最大の功績は「ネットワーク構築力」
近年の歴史家が最も注目しているのがここである。
龍馬の本当の才能は、
政治家でも軍人でも思想家でもなく、
ネットワーク構築者だったという見方である。
当時の日本は藩によって分断されていた。
薩摩は薩摩。
長州は長州。
土佐は土佐。
会津は会津。
互いに情報共有すら十分ではなかった。
その中で龍馬は、
- 薩摩
- 長州
- 土佐
- 肥前
- 公家
- 商人
- 外国人
を横断的につないでいた。
現代風に言えば、
「スタートアップ界隈のスーパーコネクター」
である。
情報と人材を結びつける能力こそが龍馬最大の武器だったのである。
龍馬は本当に大政奉還の立役者だったのか
坂本龍馬の功績として必ず語られるのが大政奉還である。
1867年10月14日、15代将軍である
徳川慶喜
は朝廷に政権返上を申し出た。
これによって約260年続いた江戸幕府は終焉への道を歩み始める。
従来の歴史観では、
「龍馬が船中八策を考案し、それを後藤象二郎に伝え、後藤が慶喜に進言した」
という流れで説明されてきた。
しかし現在の研究では、この構図はかなり単純化されすぎていると考えられている。
当時の慶喜は既に政治的な行き詰まりを認識していた。
薩摩と長州が接近し、欧米列強の圧力も強まる中で、幕府だけで日本を統治することは困難になっていた。
慶喜自身が政権返上を一つの選択肢として検討していたことは、多くの史料から確認できる。
つまり大政奉還は龍馬一人の発案ではなく、幕末政治の流れの中で生まれた選択だったのである。
しかし龍馬が果たした役割も無視できない。
龍馬は土佐藩の
後藤象二郎
と密接に連携し、大政奉還というアイデアを政治的に実現可能な形へ整理した。
言い換えれば、龍馬は発明家というよりプロデューサーであった。
歴史を動かしたのは慶喜自身の判断である。
しかしその判断を後押しする政治構想の形成に龍馬が関与していた可能性は高い。
海援隊とは何だったのか
龍馬の実像を考えるうえで欠かせないのが海援隊である。
多くの人は海援隊を「日本海軍の前身」と理解している。
しかし実態はかなり異なる。
海援隊は現代でいえば、
商社
海運会社
ベンチャー企業
政治団体
を合わせたような組織であった。
長崎を拠点とし、
薩摩藩
土佐藩
長州藩
外国商人
などと取引を行っていた。
龍馬はそこで武器調達や海運事業を行いながら、各藩の情報交換のハブとして機能していた。
特に重要なのは、海援隊が藩の枠を超えた組織だったことである。
幕末日本は藩が絶対的な単位だった。
しかし海援隊には様々な出身者が集まっていた。
これは当時としては極めて革新的であった。
歴史家の中には、
「龍馬最大の功績は海援隊という越境型組織を作ったことだ」
と評価する者もいる。
当時の人々は龍馬をどう評価していたのか
龍馬を神格化したのは後世である。
では同時代人はどう見ていたのだろうか。
非常に興味深い証言が残されている。
まず長州藩の中心人物である
木戸孝允
は龍馬を高く評価していた。
木戸の日記には龍馬との会談記録がたびたび登場する。
また薩摩藩の
西郷隆盛
も龍馬への信頼を示している。
一方で、維新政府を主導した人物たちの回想録を見ると、龍馬を「維新最大の功労者」と評価する声は意外に少ない。
これは非常に重要な事実である。
つまり龍馬は、
「誰も知らない無名の人物」
ではなかった。
しかし、
「維新を一人で成し遂げた英雄」
でもなかったのである。
当時の評価は、
「優秀な仲介者」
「発想力に優れた人物」
「情報通」
というものが中心であった。
暗殺が龍馬神話を生んだ
歴史にはしばしば「早すぎる死」が英雄を生み出す。
龍馬もその典型例である。
1867年11月15日。
京都近江屋で龍馬は暗殺される。
享年33。
犯人については現在でも確定していない。
有力説としては、
・新選組説
・見廻組説
・薩摩黒幕説
・紀州藩説
などが存在する。
現在では
京都見廻組
による犯行説が有力視されている。
しかし決定的証拠はない。
重要なのは暗殺そのものより、そのタイミングである。
龍馬は明治維新直前に死んだ。
そのため失敗する機会を失った。
もし明治政府に参加していれば、
政争に敗れたかもしれない。
汚職疑惑を持たれたかもしれない。
政策で失敗したかもしれない。
しかし龍馬は最も輝いていた瞬間に歴史から退場した。
その結果、人々は理想の龍馬像を自由に描くことができたのである。
龍馬が生きていたら何をしていたのか
歴史ファンの間で有名なテーマである。
もし龍馬が暗殺されなかったらどうなったのか。
多くの研究者は、
西郷隆盛や大久保利通のような政治家にはならなかった
と考えている。
龍馬の性格を見ると、
中央官僚型ではない。
むしろ商業や外交の分野で才能を発揮した可能性が高い。
実際、龍馬自身は外国貿易に強い関心を示していた。
そのため、
・海運事業家
・貿易商
・外交官
・民間実業家
として活躍した可能性がある。
現代風に言えば、日本初のグローバル企業家になったかもしれない。
歴史学が描く「真実の坂本龍馬」
それでは最新研究を踏まえた最終評価をまとめてみよう。
現在の歴史学界では、
薩長同盟の創設者
船中八策の単独起草者
大政奉還の発案者
という従来の龍馬像は修正されつつある。
しかしだからといって龍馬が過大評価だけの人物だったわけではない。
むしろ研究が進むほど、別の意味で重要人物だったことが見えてきた。
龍馬は、
偉大な軍人ではない。
偉大な政治家でもない。
偉大な思想家でもない。
だが、
異なる立場の人々を結び付ける能力
新しい発想を実現へ導く能力
既存の枠組みに縛られない行動力
を持っていた。
これこそが龍馬の本質である。
現代社会で例えるなら、
国家を変える政治家ではなく、
国家を変える人々をつなぐ起業家だったのである。
結論
坂本龍馬は司馬遼太郎が描いたような万能の英雄ではなかった。
薩長同盟も船中八策も大政奉還も、龍馬一人の功績ではない。
しかし近年の研究が示しているのは、
「龍馬は何もしていなかった」
という結論でもない。
むしろ龍馬は幕末という激動の時代において、
情報を集め、
人をつなぎ、
構想を整理し、
変革を加速させた触媒だった。
歴史を動かしたのは西郷隆盛や木戸孝允、大久保利通や徳川慶喜であったかもしれない。
しかし彼らを結び付け、時に方向性を示し、変化を促進した存在として龍馬が果たした役割は決して小さくない。
神話の龍馬は確かに存在しない。
だが、神話を剥ぎ取った後に残る実像もまた、幕末日本において極めて魅力的で重要な人物なのである。
坂本龍馬とは、「維新の英雄」ではなく、「維新を可能にしたネットワークの中心人物」と評価するのが、現在の歴史学に最も近い見方と言えるだろう。
150x150px

