森喜朗さんの「聖子、頼んだぞっ!父より」なLINEスタンプ

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士は己を知る者の為に死し、女は己を説ぶ者のために容つくる

という言葉がある。

史記~刺客伝(中国の戦国時代の物語)で、晋の予譲がかつての恩人・知伯のかたきを討つときに語った台詞である。意味は、

男性は自分の真価をよく知り認めてくれた人のためなら、その人のために死んでもよいと思い、女性は自分が傍にいると喜んでくれる人がいれば、その人のために化粧をしたいと思うものだ

である。

日本は長らくこの考え方でやってきた。

この考え方自体がおかしい、男女平等ではない、と考える向きもあるのだろうが、わたしはそうは思わない。

男女平等は大いに結構なことだと思うがやはり男性と女性は違うとわたしは思う。

どちらが偉い、というような意味でではない。

身体的機能が決定的に違うのだ。機能が違うので自ずと性質も異なるのだ。

男性には出産の痛さや生理のときの不快さは判るまい。子供を育てる時のプレッシャーもわかるまい。夜中に1時間おきに赤ん坊に泣かれたときの苦しみもわかるまい。遊びに行きたくてもいけない、息抜きすらできない子育ての苦しみもわかるまい。

女性が知るべき男性特有の不快さについては思い浮かばないのだが、男性には生理的な何かによって体に不都合が生じることはほぼない。子育て、教育は女性任せ、子供が泣こうがわめこうが女性に任せて会社に行ける、飲んで帰ってこれる、能天気でお気楽そのものだ。

女性はその身体機能的特徴により、その時々のコンディションに波ができ、ライフサイクルのどの辺にいるかにより生活自体が劇的に変わる。

このコンディションの波や生活の否応ない変化をもって優劣をつけたり待遇に変化をつけるのはフェアではない。

男性は女性の生理的な苦しみについての理解に欠ける部分がある。相手は自分と同じと考える。同じではない、違うのだ。

違いに対する無理解の積み重ねが女性蔑視の根本にあるように思われる。

例えば女性の出世について経営側がよく口にする「女性は出産すると仕事辞めちゃうからな~、だから管理職にはつけられないんだよ~」などといったことだ。

かつては女性が出世しようとすると結婚や出世をあきらめなければならない世の中だった(今もある意味そうか)。

その結果が少子高齢化社会である。

男女の違いを理解し、身体機能的に波がある女性について「それがスタンダードなのだ」と考える思考がまず足りない。男女平等以前の問題だ。

まずは女性への理解が当たり前に備わってこその男女平等なのだと思う。

人間の世界は男性だけでも女性だけでも成り立たない。

しかし「人」としてくくれば全く同じである。

これが男女平等の基本的な考え方なのだと思う。

「人」として同じである以上、その待遇に差があってはならない。シンプルなことだ。

残念ながら日本は西洋式の「ジェンダーレス」という言葉の上っ面だけをとり入れているに過ぎないので、まだまだその思考にまで到達していないんではないかと思う。「はいはい、待遇が平等ならいいんでしょ」ではないのだ。

で、シンキロウ(森喜朗)さんについてである。

女性蔑視発言で辞任した彼の後継者は女性の橋本聖子さんなのであった。

ここに「シンキロウ(森喜朗)さんは本当に女性蔑視の人か?」疑惑が持ち上がる。

オリンピック関連の組織に女性が少ないのは周知の事実であり、その上で「女性が入ると会議が長い」と言ったのでそこだけをとれば完全に有罪だ。

だがわたしはシンキロウ(森喜朗)さんのこの時の40分間の話のすべてを聞いたわけではない。マスコミが任意に切り取った部分だけだ。

なので実際のところは判らない。シンキロウ(森喜朗)さんは失言王なので「すわっ、女性蔑視発言!、森喜朗がまたやったっ!」と面白おかしく報じたが、それが「日本は女性蔑視の国」であることを世界に知らしめることとなってしまった。自業自得である。

彼が真に男尊女卑の人かというと必ずしもそうとは言えないのではないかと思う。

シンキロウ(森喜朗)さんの発言で「日本の男女平等は遅れている」ことが国外にばれてしまったのも問題だが、実は「日本における会議は決定事項の発表会であり欧米における会議とは全く違うものだ」という事実がばれてしまったのも問題である。

シンキロウ(森喜朗)さんにとっては「根回し」により、問題点や課題は解決済みなので「発表会で文句を言われても困る」のだろう。

しかし日本のいたるところでおこなわれている会議がこのスタイルに近いことは女性蔑視発言と同じくらいに問題なのだ。

シンキロウ(森喜朗)さんひとりがすべてを把握しているというシステムだったために「辞めないでください」は起きた。

これがシンキロウ(森喜朗)さんにとっての「安全装置」でもあったわけだ。

日本においては「男女平等」の前に「そもそも会議のやり方が違う」といった議論から始めるべきなのだ。

橋本聖子さんの登場で東京オリンピックが行われれば、きっとうまくいくだろう。

今すぐには無理だろうが、「会議の仕方を変える」ことをしなければ、日本はますます国際社会から乖離していくことになるだろう。

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